ガイナックス福島 / おおたかどや山・日本標準時 / 東日本大震災・原子力災害伝承館

須賀川アーカイブセンターの次は円谷英二ミュージアムに行くべきなんでしょうが、特撮にはそこまで思い入れはないので(←)むしろこっちが見たかったという「ガイナックス福島(福島ガイナ)」へ。廃校を利用して運営されていた「福島さくら遊学舎」内に2014年、ガイナックスがスタジオを設ける形で始まったガイナックス福島ですが、さすがに不便だったのかアニメーション制作事業は2018年に都内に集約されているようです。それでも「フライングベイビーズ」などいくつかの作品はここで製作されたようです。なおガイナックスと言えば「庵野氏とエヴァンゲリオン」ですが、それは2007年に分離した「株式会社カラー」に人も版権も移っていますので、現在のガイナックスとエヴァは無関係です。

 

入り口。ちなみに振り返るとこんな景色。

 

なごむー(笑。

こういう風景の中の廃校でのアニメーション制作は昨今のテレワークを先取りしたようなスタイルでしたが、庵野氏が去った後のガイナックスが放漫経営だの不祥事だのでごたごたしており、現在のガイナックス自体があまりいいイメージがありません。ただ、それでもガイナックスの名を冠したスタジオが福島の山中に設けられているのに興味を惹かれ、いつか来てみたいと思っていました。

さて建物に近づいてみます、が…

 

見学させてもらおうと思ったら対感染運用で「予約必須」とのこと。私の他にはお客さんはいないようで、たぶん今日は予約なしの日で実質休業だったのかも知れません。まぁ思い付きで寄ったので仕方ありません。まぁこの日は天気も穏やかでしたし、周囲の雰囲気だけでも感じられたので良しとします。

 

次はいつか見たいと思っていた大鷹鳥谷山(おおたかどややま)にある「標準電波送信所」へ。

途中、こんなオブジェを見つけました。SEIKOの日本標準時表示です。なんかいいですね。

そして山道を延々と6kmくらい?走って到着。

 

ここかー!

 

中へは入れませんが、立ち入り禁止のゲートの前からでもアンテナを確認できます。高さは250mあるそうです。東京タワーの第二展望台の高さですね。この山自体が標高790mあるそうなので、アンテナのてっぺんは海抜1,040mということになり、スカイツリーより高いことになります。但しアンテナ自体は細いため、あまり圧迫感はありません。

ここから40KHzの長波の電波が発射され、電波時計の時間合わせに使われています。電波の到達距離は約900kmで、北は北海道から南は本州の端(山口県)あたりまで届くようです。しかし日本にはもう1つの標準電波送信所が佐賀県にあって、関西以西はそちらの方が電波が強いかと思います。

少し離れてから振り返ると、

写真中央に小さく見えるのが250mの電波塔。スカイツリーのようにこれみようがしに建っている電波塔もいいですが、こんな山奥にひっそりと建っている、知らない人には何やってるか分からない棒状のアンテナから日本の半分以上の電波時計の時刻合わせがされているとか、ロマンがありますね。キュンキュンします。

余談ですが、かの有名な福島第一原発の水素爆発の瞬間を捉えた情報カメラは、この電波送信所の割とすぐ近くに設置されていたという話があります。確かに地図で位置関係を確認すると概ね合っているように思います。

 

最後にまだ開館して一週間くらいしかたっていない?「東日本大震災・原子力災害伝承館」へ。この日は復興大臣が視察に来られるとのことで入場が一次停止。浪江焼きそばを食べて待ちます。そういえば駐車場には品川ナンバーの車が散見されました。

 

浪江焼きそばは初めて食べましたが、これはB級グルメの王道ですね。これこれ、これがB級グルメだよね!って味。(→本当にB級グルメGPでグランプリ取ったそうです。(笑)わかるー。)

 

そしていざ伝承館の中へ。電子マネーでチケットが買えるのがいいです。なお中は撮影禁止なので、写真はありません。

1時間ほどで一通り観られるのですが、感想としては展示のストーリーに筋が通っている印象を受けませんでした。

たとえば、ガラスケースの向こうにランドセルやPOLYCOMの電話会議システムが展示されてるわけですが、ランドセルは普通に使い古したランドセルと何ら変わりないし、POLYCOMの電話会議システムなど、これまだ現役で使ってる会社多いだろ?というようなものです。それが被災地で使われていたものだと言われても、見た目にはガラスのこちら側の世界にあるものと同じなので、これで何を主張したいのか理解できませんでした。これが津波被害のものならばあり得ない壊れ方をした日用品から凄惨さを感じることができるのですが、放射能被害は目に見えませんから、単にそこで使われていたものです、というだけでは説得力がありません。

入場時に強制的に見せられる、顔は出しませんが西田敏行氏と思われるシルエットと声でのイントロダクション映像はまぁまぁ良かったですが、それ以降がちょっと…。

ここでは語り部、講演会、ワークショップなども開催されるようで、そういうのに参加すればまた違った印象だったのかもしれません。

 

どういう見せ方をすればよかったのでしょうか。東電内の対策本部のいくつか生々しい展示、特に当時のホワイトボードの板書そのものは「誰々が避難拒否」などの情報が記されていて良かったですが、肝心なところは生々しすぎるためかマスキングされていました。あとは避難が決まったエリアの学校に残されていた、学生によると思われる黒板への寄せ書きはグッときました。普通の卒業じゃないですからね。東京への就職とかじゃない理由で、ここから強制的に、しかも全員出ていかなければならないとなった瞬間の気持ち、決意が記されていて心揺さぶられました。なお黒板は来場者に消されないよう、保護パネル越しでの観覧です。

ただまぁ、これくらいが限界で、あまりやりすぎると、被災者の心の傷になってしまうのでできないのでしょう。あとはまだ原因究明がはっきりしない、白黒付かないところについては断定的な展示はできないってことですよね。

1971年の営業運転を開始したこの原発により、地元に多大な雇用と税収が生まれました。原発に勤務することは地元の人にとっては誇りであり、一生食いっぱぐれないことを約束されたものだったのでしょう。そんな施設がある日を境に、非難と憎悪の対象になる。そこの落差をアピールすればよかったのでしょうか。でもそのアピールって、「伝承」して何か役に立つのでしょうか。「当たり前と思っている日常は明日も続くとは限らない」って震災以降よく言われるフレーズですが、その刹那を前面に出して生きていくのも辛いでしょう。

この事故に至る原因はもちろん原発の設計運営方針にあった訳ですが、今の日本のコンプライアンスに当てはめてみれば信じられないような判断プロセスを経て決まっていることが多くて、でもそれが昔の日本だったんですよね。そのあたりを表面化させるのはさすがにハレーションが大きいでしょうか。

にしても、もう少し後世に何を「伝承」したいのかを再検討した方がいいように感じました。もしかすると私が早足で回ったからかもしれません。再び近くに来ることがあればもう1回くらいじっくり観てみたい気もします。少なくともこの伝承館より、その周囲にある帰宅困難地域の街並みの方がよほど心が痛みます。バリゲートで入り口がふさがれた住宅、日中でも信号が黄色点滅だらけの国道6号(右左折は許可証がないと入れないエリアのため)、震災被害でガラスが割れた状態からそのまま放射能汚染で避難せざるを得ず草ぼうぼうになってしまった建物など…。

 

この右手の林の向こうが、F1です。なおここの線量はだいぶ除染したようで 0.05μSv/h。まぁ普通です。

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